2025.06.11ブログ:Yoshiizumiの部屋
忘れられる前提で、生きてみる。
「死んだら、どうせ忘れられる。」
この言葉を、悲しみや絶望ではなく、 もっと自由に生きるための前提として捉えてみたら、どうだろう。
シェリー・ケイガンという哲学者がいる。
イエール大学で「死(Death)」をテーマにした人気講義を長年担当していた人だ。
彼は本の中で、こんな問いを投げかけてくる。
「あなたが死んだあと、名誉を傷つけられたとして、それは本当に“悪いこと”か?」
「忘れられるとして、それが“問題”だと、なぜ言えるのか?」
死んでしまえば、もう何も感じられない。
名誉も悪口も、賛辞も賞も、そこに自分はいない。 なのに、なぜそれらを恐れたり、気にしたりしてしまうのか。
そう考えていくと、ふと立ち止まってしまう。
「誰かにどう思われるか」を気にして、生きてない?
「恥ずかしいから」 「嫌われたら困るから」 「誤解されたらどうしよう」
そんな理由で、やりたいことを飲み込み、言いたいことを抑えて、 “無難な自分”を演じ続けていることって、案外多い。
でも、それって誰のためなんだろう?
死んだあとに何が残るのか。 それを気にする以前に、 「いま、自分の思うままに生きられているか」が一番大事なんじゃないか。
誰かにどう思われるかを気にしすぎると、 “自分が自分じゃない時間”ばかりが増えていく。
そのまま、人生が終わってしまったら── それこそ、もったいないじゃないか。
「忘れられる」は、自由になれる呪文
「どうせ忘れられる」って、冷たい言葉に聞こえるかもしれない。
でも、それは裏を返せば、 「誰の目も気にせず、自分の人生を生きていい」ってことでもある。
すべての評価や噂話が、永遠に続くわけじゃない。 だったら、もっと自由に、思うように、生きてみてもいいはずだ。
そもそも、他人の評価って変わる。
今の世の中、数年前の賞賛が、あっという間に無関心に変わったりする。
だったら、自分だけは、自分のことを認めてあげないと、もったいない。
死んだあとに「立派だった」と言われるより、 生きてる今、「やりたい」と思ったことをやる方が、ずっと大事。
「自分が納得できるか」だけが、本当の評価軸
死んだら、何もわからない。
だったら、いま生きてるこの時間に、 「自分が納得できるかどうか」だけを基準に生きてみたい。
後悔するかもしれない。 間違うかもしれない。 でも、そのすべてが“自分の選択”だったと思えるなら、それでいい。
「誰にどう思われるか」を基準にすると、 人によって答えが違いすぎて、ブレブレになる。
でも、「自分が納得できるかどうか」だけを基準にすると、 シンプルだし、ブレようがない。
それは、ある意味、 “死ぬときに後悔しないための生き方”なのかもしれない。
最後に──気にして生きて、どうする?
気にしたところで、 忘れられる。
気を使っても、 いなくなる。
だったら、 誰にどう思われようが、 やってみたかったこと、言いたかったことを、
今ここで、ちゃんとやってみようじゃないか。
誰かの記憶に残るかどうかなんて、 もう、どうでもいいのかもしれない。
自分が、自分の人生に拍手を送れるかどうか。
それだけを頼りに、生きてみるのも、悪くない。

「気づいたら、貼ってた。」
「気づいたら、読んでた。」
そんなふうに、生活にすべり込む“問い”や“ゆるさ”を
こっそりつくっています。
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正直、なにかに効くかはわからないけど、
「思わず手に取っちゃった」とか、
「何か言いたいのに言葉が見つからなかった日」に、
そっと寄り添えるものを目指してます。
よかったら、ちらっとのぞいてみてください🐾
