2025.06.09ブログ:Yoshiizumiの部屋
言葉にするって、こういうことだと思う。 ──なぜ、“具体的に書く”と伝わるのか。
「頑張ってます」「やっています」「想いを込めてやってます」
たしかに、全部本当だと思う。嘘じゃない。 でも、読んでるほうは、なぜかよくわからないまま読み終わってしまう。
言葉って、あいまいでも成立する。 けど、それで「伝わる」とは限らない。
「あるある」って思える瞬間って、けっきょく“具体”だ
たとえばこんなふうに書かれていたら、どうだろう。
昨日、冷蔵庫の奥にいた“存在を忘れてた大根のきんぴら”を発見して、ちょっと泣いた。
読んでる側に、情景が浮かぶ。
「あー、それあるわ」ってなって、そこからこの人の話をもう少し聞いてみようって気持ちになる。
共感は、細部に宿る。
うまくまとめられた言葉や、立派な理念の文章よりも、
“くたびれた靴下を脱いだ瞬間の、あの開放感”を言葉にした人のほうが、たぶん届く。
「書く」って、自分の中の出来事をもう一度“発掘”すること
よく言われる。「本音で書こう」「自分の言葉で書こう」って。 でも、自分の言葉ってなんだろう?と思う。
それはたぶん、“ちゃんと思い出せること”なんじゃないか。
書こうとして出てこないとき、ぼくはよく思い出す練習をする。
「あの日、どんな空気だったっけ」 「何を食べたっけ」「帰り道、なに考えてた?」
すると、少しずつ、輪郭のある記憶が出てくる。 そこから書くと、文章が急に“生きたもの”になる。
具体的に書くと、伝わるのはなぜか
たぶん、相手が“勝手に補ってくれる”からだ。
全部を説明しなくても、 読み手の中に「あるある」や「それわかる」が生まれる。
具体って、読まれる側の想像力を信じることでもある。
「こんなことがあってね」 「それで、ちょっと困ったんだけど」
ただそれだけの話が、ずっと心に残ることがある。
説得じゃなくて、“共有”が生まれる
情報があふれている時代だからこそ、
「どう思ってほしいか」よりも、 「ほんとにあったこと」「ほんとに感じたこと」のほうが信用される。
つまり、「具体的であること」は、信頼の形でもある。
その日、なにがあって、どんなことを考えて、 それを今の自分はどう受け取っているのか。
そこに嘘がなければ、それでいい。
まとめ:書くことは、思い出すこと。
伝えるために書くんじゃなくて、 ちゃんと「そこに居た」自分を、記録して渡すように書く。
言葉が届くとしたら、 それは“うまさ”や“勢い”じゃなくて、 たぶん、その人が“そこにいた”ことの濃さなんだと思う。
だから、具体的に書こう。 書くことは、いまの自分に立ち戻る、ささやかな旅でもある。

