2025.07.21ブログ:Yoshiizumiの部屋
“仕事の手順”が、誰かを追いつめてないか? ――マニュアルが守るのは「人」か「しくみ」か。
「マニュアル通りにやっただけ」――その言葉の裏側にあるもの
ケアの現場で、こんな言葉を聞くことがある。
「私は、マニュアルどおりにやっただけです」
…その言葉には、どこからの責任を回避しようとするような、
あるいは自分の考えや心を言葉にするのが怖いような、そんな急の怖さを感じることがある。
しかしこの言葉、本来は「まちがいのない行動」の証明であるはずだ。
でも、実際の現場はそんなに単純じゃない。 「気持ちを宝める」「その人らしさを大事にする」…
そんな、マニュアル上は観測できないことまで、「この職場の常識」として沈黙の中に溜まっている。
空気で動く職場、言葉で伝わらない「正解」
「それ、この職場でやったらアウトだよ」
新人にとってこれは恐怖でしかない言葉だろう。
マニュアルにはない「正解」が、職場の中の空気という形なきルールによって形成されている。
このルールに、新人や不安を抱えたスタッフは絶対的な対応を求められる。
そしてそれはたいてい、「あの人は分かってる」「あの人は読みとれる」という、一種の定義と合格を給われる体系になる。
強さも魅力も、こうした「空気を読めるちから」の先にあるのだろうか?
それとも、「やりかたを聞ける空気」のある職場のことを、強さと呼ぶのだろうか?
守られるべきは“手順”か、“その人らしさ”か
マニュアルは、実はとてもやさしい。
「まずはこの順番で」「この合計表を使えば大丈夫」…
やることが決まっていると、つまらないミスでも、問題の裏にある原因を見逃すことがある。
日々の仕事によりそうならば、手順や正解は、「この人にとってどうだろう」という視点で見なおすことも必要だ。
例えば、高齢者支援の現場で、旧条件のマニュアルで、新しい利用者の不自由を混乱と判断することは、
その人の生活を改善するどころか、かえって悪化させてしまうこともある。
“ズラせる手順”が、心の余白をつくる
それでは、どうすればよいのだろう?
キモは「ずらすことを許す」ことだ。
ルールを強制するためのマニュアルではなく、「ずらすための」可変性を包んだ設計にする。
「毎日は同じようにしてるけど、今日はこの順番にしてみたらどうかな」
それは、やり方を変えることではない。
その方が、その人にとって幸せなら、空気を落ち着けるなら、その設計を選べる空間があってもいいはずだ。
問いのある現場が、文化になる
「どうするのがここの正解なの?」 …この問いを自分の中に残しておくだけでも、現場はやわらかくなる。
「無くてもいいけど、あってもいい」 そんな空気を許す場は、やがて、「それでいいのか」を言い合える文化を育んでいく。
問いのない現場に、成長はない。 説明することをやめた現場に、優しさは生まれない。
「この人のために、この手順ではなくてもいいんじゃない?」 そんな探り調べを、許せる職場に、
ちょっとだけ、難しいことを言い合える現場に、していこう。
まとめ:「正しさ」よりも、「誰かの顔」が見える手順に
「手順」は、本来、安心を生むものです。
でも、その手順が「人を押し込めるもの」になっていたら──
それはもう、“正しさ”とは言えません。
マニュアルを守っているのに、苦しそうな人がいる。
声をかけるときも、ケアをするときも、
なんだか「型」ばかりが前に出て、
“その人らしさ”が見えづらくなっているとしたら。
それは、「間違ってる」のではなく、
今、ちょっと“問い直すタイミング”に来ているだけです。
現場に必要なのは、「完璧な正解」ではなく、
誰かの顔を想い浮かべながら、やさしくゆるめていける
“手順の余白”なのかもしれません。

今日、目の前のケアが、
ほんのすこしでも「その人に合ってるかな?」って、
立ち止まってみるだけでも、
チームの空気は、ちょっとずつ変わり始めます。
正しさに追われず、誰かに寄り添える手順を。
現場にあるのは、そういう「あたたかさの再設計」なのです。
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