2025.06.30ブログ:Yoshiizumiの部屋
雨が上がったら、靴を脱いで歩いてみた──サマンサ駄馬打、今日もどこかでズレている
傘を持たずに外に出た。
というか、正確には、忘れた。 天気予報を信じすぎたせいか、いつもより軽やかに出発した朝に限って、雨。
足元からじんわりと染みてくる冷たさを感じながら、ふと思った。
「そうだ、靴を脱いでみよう」
まわりの目が気になるような気もしたけど、気がつくと靴を手に持っていた。
素足でアスファルトを歩くと、雨水がやけにあたたかく感じる。
不思議だ。 さっきまで「濡れたくない」と思っていたのに、いまは「濡れてもいい」どころか「濡れたい」気持ちにさえなっている。
それだけで、世界はちょっと違って見える。
働きたくないわけじゃない
誰もが「働きたい」と思っていないわけじゃない。
ただ、靴の中が濡れて冷たかったり、誰かの決めた歩き方しかできなかったりして、
どうしても立ち止まってしまうことがあるだけだ。
それを、「やる気がない」とか「甘えてる」とか言われたら、もう何も言えなくなる。
だけど本当は、そうじゃない。
靴を履いたままじゃ、痛くて歩けないだけかもしれない。
思いきって脱いでみたら、自分の歩幅で歩けるようになるのかもしれない。
でもその“思いきり”を出すのが難しいんだよね。
自分の意思で選んだように見えて、実は「そうするしかなかった」選択肢ばかりだったりする。
サマンサ駄馬打の独り言
「おしゃれって何?」
そう聞かれたサマンサ駄馬打は、こう答える。
『坂道を転がるときに、草がくっつかない格好』
見た目を取り繕うためのものじゃなく、 自分がどう動きたいか、どこに向かいたいか、その延長線上にある“装い”。
他人からどう見られるかばかり気にしていると、 自分が本当はどこに行きたいのか、忘れてしまう。
駄馬打は、今日も雨の中をズレた格好で転がっていく。
でも、そのズレが愛おしい。 ズレることでしか見えない景色がある。
履きなれた靴を脱ぐ勇気
自分にとって当たり前だった考え方を、いったん手放す。
それは、恐ろしくて、面倒で、非効率で、
なにより「失敗したらどうしよう」という不安がついてまわる。
でもね。
その靴、本当に“自分の足”に合ってる?
もし合ってないなら、 履き続けるほうが危ないってこともある。
一歩踏み出すとき、スニーカーじゃなくて、草履でもいい。 サンダルでも、裸足でも。
自分が「歩ける」かどうか。 それだけが大事なんだ。
濡れるから、見えるものもある
晴れた日にしか外に出ない人には、見えない世界がある。
濡れるのを恐れずに歩くと、 どしゃ降りの向こう側に、ぽつんと光る空が見えてくることがある。
それは“希望”とか“目標”とか、そんな綺麗な言葉じゃ言い表せない。
でもたしかに、そこにあるんだよ。
ただただ「なんとなく歩いてみようかな」と思えるだけで、 それが小さな一歩になる。
まとめ|“働きたい”は、心の奥でずっと灯ってる
サマンサ駄馬打は言った。
『草を食ってる場合じゃない』
それはつまり、自分の人生に“火”を入れようぜってこと。

どこかでズレながらも、今日も誰かが転がってる。
それは「働きたくない」からじゃなくて、 「どう歩いていいか、まだわからない」だけかもしれない。
もし、そんな誰かがいたら── その人の靴を、そっと見せてもらおう。 そして、濡れた道の歩き方を、一緒に探していこう。
▶ SUZURIで展開中の「サマンサ駄馬打」グッズはこちら: https://suzuri.jp/Akira602/products
▶ Kindle本『やる気がなくても、進んじゃうぃ。』はこちら: https://www.amazon.co.jp/dp/B0FBFQN5PH
