2025.05.06ブログ:Yoshiizumiの部屋
人の価値は“評価”じゃなく、“作用”で決まる
「その人が、そこにいる意味」ってなんだろう。
仕事をしていても、日常でも、どうしても「評価」という言葉がついてまわる。
成果が出た、数字を出した、褒められた、承認された。
でも最近思うのは、**それって、本当に“その人の価値”なんだろうか?**ということだ。
評価されるために動いているうちは、どこか苦しい。
誰かの物差しの中で測られ、自分を演じ、正解に合わせている感覚。
だけど、本当の価値って、そういう“外からの測定”ではなく、
「誰かにとって作用したかどうか」なんじゃないかと思うのだ。
評価と作用は、似て非なるもの
評価は過去の結果。
作用は、いまこの瞬間に“誰かの中で何かが変わったかどうか”。
たとえば「その人がいると安心する」とか、
「一緒にいると場の空気がやわらぐ」とか、
「言葉じゃないけど、あの人の背中が力になる」──
そういうのは、目に見える評価にはならない。
でも、確実に“作用”している。相手の内側に、何かが生まれている。
職場でも、家庭でも、誰かにとって「居てくれてよかった」と思われる存在は、
数値的な実績よりも、**“見えないところで作用している力”**を持っている。
「あなたの長所って、誰が決めた?」
就職面接でも、自己分析でも、よく言われる。
「自分の長所を教えてください」って。
だけど思い出してみてほしい。
その長所、最初に気づいたのって、たぶん自分じゃない。
「あなたって、○○な人だよね」
そう言われて、「あ、そうなんだ」って思ったのが始まりだったりしないだろうか。
つまり長所って、他人の目に映った自分の一部にすぎない。
それを“自分の軸”にしてしまうと、他人の期待を背負うことになる。
やさしいって言われたら、やさしくいなきゃいけない。
明るいって言われたら、落ち込んじゃいけない。
でも、ほんとうの意味での「自分の力」って、
自分が自分のままで誰かに作用できたときにこそ見えてくるものなんだ。
「良さ」は固定された才能ではなく、“流動する力”
誰に対して、どの場面で、どう振る舞うかによって、
同じ性格も“善”にも“毒”にもなる。
真面目な人が、細かすぎて周りを疲れさせることもあれば、
ルーズな人が場をゆるめて救うことだってある。
だからこそ、性格を変える必要なんてない。
ただ、“どう使うか”を自分で選べばいい。
長所も短所も、役に立つときもあれば、邪魔になるときもある。
その“使い分け”ができるかどうかで、人間の可能性は何倍にも広がる。
あなたがいたことで、変わるものがある。
評価されなくてもいい。
表彰されなくてもいい。
ただ、誰かの呼吸が少しラクになったなら、
誰かの顔が、ふっとやわらいだなら、
それはもう、あなたが“作用した”という証拠だ。
まとめ:評価じゃなく、あなたの存在が「誰かを動かしているか」
人は、評価されて価値が生まれるのではない。
誰かに作用した瞬間に、その価値が“立ち上がる”。
大丈夫。
たとえ数字に表れなくても、あなたの存在は、今日も誰かに届いている。
今日も、だいたい大丈夫。

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